【芸能界と格闘技界 その深淵】#番外編

 曙太郎(中)

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 2001年の初場所を最後に、現役を退いた第64代横綱・曙太郎に、日本相撲協会は功労金1億円を贈っている。初の外国人横綱に対し冷淡だった協会も、若貴兄弟と相撲人気を牽引した功績までは無視できなかったということだ。

 当然のように引退後は年寄名跡を取得して親方として部屋を起こすことが予想された。親方となる資格は十分にあったし本人もそれを望んでいた節もある。でなければ現役時代の1996年に帰化などしないだろう。

 しかし、一番の難題は年寄株は譲渡されない限り取得できないことにある。2人目となる外国人親方の誕生に、譲渡を名乗り出る年寄がなかなか現れなかった。もちろん、タイミングもあったろうし、高砂一門の事情もあったろうし、師匠である元高見山の東関親方との不仲も背景にあったはずだが、真相はわからない。ただ、筆者が見た限り理由はそれだけではなかったのではないか。外国人親方に部屋を起こさせるのは、我々の想像以上にハードルが高いものかもしれない。

 そこで、引退後は相撲協会に残り、横綱の特権である現役のしこ名である「曙親方」として、東関部屋付き親方としてかつての弟弟子の指導にあたるしかなかった。すなわち、師匠・東関親方の配下につくことで、年寄名跡の譲渡を待つ道を選んだということだ。伝えられてきた2人の関係性を思えば、相当なストレスだったのは間違いない。

 組織に残る選択をした曙に、日本相撲協会は「興行本部長」の役職を与えた。功労者としてのまっとうな評価を与えたと見えなくもないが、実情は人気横綱だった曙の知名度を利用して、膨大な数のチケットをさばこうとしたことにあった。この処遇に対し、かねて協会と微妙な距離感を持っていた彼が、どう感じたか想像するに余りある。とはいえ、1億円という決して安くない功労金を渡していることを思えば、「引退後も売り上げに協力してほしい」という協会の意図も理解できなくもない。

■「ボブ・サップと戦ってほしい」

 この時期、曙の姿は各所で目撃されている。筆者も2度ほど見かけたことがあった。一度は赤坂の一ツ木通りを闊歩しているところ。もう一度はラジオのニッポン放送である。当時、台場のフジテレビの社屋と共有していたニッポン放送の番組のゲストに招かれたのだ。いずれも、スーツ姿で窮屈そうに映ったが、新生活を満喫しているようにも見えた。「両膝の回復の見込みがない」という理由で、現役を退いた曙だったが、次第に回復の兆しが見えたことで明るさを取り戻したのはあったろう。現役時代から治癒力の高さは特筆されてもいたからだ。

 それでも、親方との不仲までは回復しなかった。同性の関係ほど一度こじれると厄介なのは世の常である。ただし「実際はそこまで深刻ではなかった」という意見も聞かれた。

「大体、師匠と弟子の関係って、そんなにベタベタしていない。基本はそれぞれが個人事業主だから割合ドライなもの」と筆者に語ったのは、かつてテレビのスポーツ部に属していた人物である。角界の事情に明るい彼にとって「高見山と曙の師弟の緊張関係なんか、それほど珍しくない」ということになる。おそらく、この見方は間違っていないのだろう。師弟関係など外部の我々が想像するより、希薄なものに違いない。

 そんな複雑な状況下にあった2003年の晩秋、事態は急旋回する。K-1プロデューサーだった谷川貞治が接触してきたのである。

 福岡まで飛んだ谷川は、曙に一枚の契約書を渡すとこう訴えた。

「大晦日にボブ・サップと戦ってほしいんです」(つづく)

(細田昌志/ノンフィクション作家)