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永井秀樹が泣いた日
ヴィッセル神戸のスポーツダイレクター永井秀樹(53歳)は、昨季のJ1初優勝を振り返る際、2023年という1年間だけで語ることは難しいと強調する。
「1つ言えるのは昨季三木谷浩史オーナーになってからちょうど20年目のシーズンで、それまでの積み重ねがあったということです。2022年は想定外の不調もあって、まさかの残留争いに巻き込まれ何をやってもうまくいかない状況でした。2023年の初優勝はそんな苦境を乗り越えてきた結果でもあります」
永井は現役時代、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)、清水エスパルス、横浜フリューゲルス、横浜F・マリノスなどでプレー。リーグ戦、天皇杯、カップ戦とJリーグの主要タイトルをすべて獲得した。だが、それまで優勝して泣いたことはなかった。それなのに、昨季第33節の名古屋グランパス戦に2-1と勝って優勝が決まったあとは、不思議と涙がこぼれてきたと明かす。
「3度も泣きました…」
その名古屋戦で貴重な先制点を挙げたのは、永井自らが獲得に動いたMF井出遥也だった(インタビュー前編参照)。井出の活躍はもちろん嬉しかったが、涙の理由はほかにあった。
「ありがたいことに、私は小学生時代を除き、大分の明野中学校、長崎の国見高校、国士舘大学で日本一を経験してきました。プロ入り後も、タイトルに恵まれました。ただ、1998年度にフリューゲルス最後の試合で天皇杯優勝したときも、周りが泣いているなか、涙は1ミリも出ませんでした。もちろん、1992年のバルセロナ五輪予選で敗退したときなどに“悔し涙”を流したことはありましたけどね。
それが今回は3度も泣きました。名古屋戦は三木谷オーナーと一緒に観戦していたのですが、終了のホイッスルが鳴った瞬間にオーナーの横顔を見たら自然と涙が出てしまい……。そのあともピッチに降りていき、選手やスタッフと喜びを分かち合っているときに涙が出て。
最後は優勝セレモニーのとき。サポーターの方にもピッチに入っていただき、選手やスタッフとハイタッチをしたんです。私はこれまでヴィッセルとは縁がなかったですし、SDの職に就いた経緯を考えても、サポーターの方に受け入れられていないのではという思いがありました。なので、ハイタッチすることに躊躇いがあり最初は一歩引いていました。それでも、恐る恐る近づきサポーターの方に『ありがとうございました』と伝えると、『ありがとう!』と返していただき、涙をこらえることができませんでした。
選手時代も、勝って嬉しくないわけはないんですが、どこか自分ごとだったところがあります。いまは周りの方に支えられていることを実感している分、余計に感傷的になったのかもしれません」
「最初はお断りしたんです」
永井と三木谷オーナーは、永井が選手時代からの旧知の仲だったという。それだけに永井は2021年9月に一部週刊誌で報じられた“指導に関する問題”で東京Vの監督を辞任し(インタビュー後編参照)、周りの人間が離れていくなか、声をかけてくれた三木谷オーナーに「恩返しをしたい」という思いが強かったのだろう。
「(SD就任で)批判の声が上がるのは想像できたじゃないですか。最初はお断りしたんです。それでも、もう一度声をかけてくれた。そういう意味で必ず恩返しをしたいと思っていました。まあ、(昨年の優勝では)全然足りないですけどね」
三木谷オーナー「涙の20分間スピーチ」
永井はヴィッセル神戸初優勝までの転機として、三木谷オーナーの“涙のスピーチ”があったと明かす。
「そもそも三木谷オーナーは月の半分くらいは海外出張だったり、普段は15分単位でスケジュールがびっしり組まれているほど忙しいんです。昨季のリーグ最終節のガンバ戦後も、優勝報告会に『少しだけでもぜひ顔を出してください』とお願いしたところ、本当に来てくれましたが、帰りは神戸空港からプライベートジェットでそのままインドへ飛んでいましたから」
そんな三木谷オーナーが選手・スタッフの前で“涙のスピーチ”をしたのは2022年の夏前のこと。優勝候補と見られた神戸は前半17試合をわずか2勝で最下位。残留圏まで最大勝ち点8差とどん底にいた。
ある夜、永井の携帯が鳴る。
「夜中に三木谷オーナーから連絡がありました。『明日、ミーティング何時から?』と。それで急遽朝イチの飛行機で、神戸空港に7時に着いて。そのままクラブハウスに来て、選手・スタッフ全員の前で泣きながら話をされて。あの話はほんとに感動しました」
涙のスピーチは20分間ほど続いたという。
「楽天を創業したときの話、2004年のクラブの経営危機。そのとき地元出身だった縁で私財を投じて出資された、と。『あのとき私が決断しなければ……クラブは消滅寸前でした』という話は選手たちにも響いたはずです。
楽天のビジネスモデルを考えると、『10円、100円の利益の積み重ねを皆さんにお支払いしています』と。『あと一歩、もう少しというところをぜひ皆さん一丸になってやってもらえませんか』と涙ながらに訴えていました」
負債16億円の“どん底”だった
このスピーチが絶望的な状態を脱する機会となり、その後チームは5連勝も記録。翌シーズンの初優勝に向けての転機になった。永井はこう語る。
「この20年間で三木谷オーナーがどれだけクラブに投資されたか……見当もつかないですが、相当な金額でしょう。ですが、ときに否定的なことを言われたり、降格危機を理由に頭を丸刈りにされたこともありましたよね。そういうことを思い出しても、本当にすごいなと思いますし、そんなオーナーが現場に来て『勝負の世界だから“勝ち負け”はある。でも、最後はみんな一丸になって戦ってほしい』と涙ながらに訴えられたら、選手もスタッフもやらないわけはないですよね」
神戸の前身は川崎製鉄のサッカー部である。元々は岡山県倉敷市に拠点を置いていたが、1995年に神戸にホームタウンを移し、現在のチーム名に変更。当初は神戸市などが出資する市民クラブだったが、2003年に経営危機に陥る。当時の報道では「Jリーグに激震。神戸が負債16億円で民事再生法、身売りへ」と騒がれた。
そこで楽天グループ代表の三木谷オーナーが経営権を取得し、自らの資産管理会社の運営を経て2015年から楽天グループの傘下となった。破産寸前だったところを、オーナーが私財を投じて経営を支えてきたのだ。
疑問の声に…「バルサ化はやめていない」
近年はその三木谷オーナーの意向もあって、イニエスタのみならず、ダビド・ビジャ、セルジ・サンペール、トーマス・フェルマーレン、ボージャン・クルキッチといずれも元バルセロナの選手を獲得するなどバルサ化を進めてきたが、すでに全選手が退団した。永井はクラブ方針への疑問の声にこう応えた。
「バルサ化はやめたのか、とも散々言われました。ただ、バルサ化は単に選手を獲得するだけではないですから。
たとえばバルサのラ・マシアと呼ばれた選手寮にヒントを得た三木谷ハウスと呼ばれるユースチームの選手らが暮らす立派な寮ができて、(ハイブリッド芝2面、人工芝1面と)グラウンドも整備された。いまのアカデミーには将来楽しみな選手が多く集まってきているんですよ。そういう意味でバルサ化も決してやめたわけではないんです」
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「まるで、黄金期のヴェルディでした」……続きでは永井SDが、ヴィッセル神戸のロッカールームでの“事件”を明かします。
<続く>
文=栗原正夫
photograph by Getty Images