クラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)やダンプ松本を中心とした極悪同盟で、女子プロレスが社会現象と呼ばれる大ブームを起こしていた1985年。西脇充子は、その年に全日本女子プロレス興業(以下、全女)のオーディションに一発合格した。同期は宇野久子(のちの北斗晶)、現役続行の通算キャリアとしては女子マット界最長となる堀田祐美子など、15人もいた。

現在は、浅香山部屋の女将さん。親方で夫、元大関・魁皇の浅香山博之さんとともに弟子を育てて、部屋を切り盛りする。美人女将が振り返る、女子プロ黄金期とは。《NumberWebインタビュー全3回の初回》

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西脇 いい時代にプロレスをやらせてもらいましたよ。あの時代が、今の私を生かしているって感じ。ひと握りの人しか女子プロレスラーになれない時代でね。私の代で3000人以上の書類審査からオーディションに受かったのは10人。その後の補欠合格で、最終的に同期は15人になったんだけど、どんどん辞めていっちゃうのね。私は5年しか続けなかったけど、短いからこそ「最高の青春時代だった!」と振り返ることができるかもしれないです。本当に貴重な経験をさせてもらいました。今でいうパワハラが当たり前で、その応酬の毎日。足を踏まれても、(後輩の)こっちが「すいません!」って謝る時代で。

――同期には、北斗さんがいて。

西脇 北斗はもう、新人のときからずば抜けてた。あの子と仲前芽久美(ドリル仲前)は練習生だったんで、「えっ、先輩!?」って思うほど何でもこなせていたし、場慣れしてた。10人の先輩が10発ずつ1人の新人を投げる「百発投げ」っていうのがあったんだけど、受けるこっちはふらっふらになるわけ。それが嫌で、辞めていく子も多かった。最後まで受けきったのが、北斗。私、目の前で見てた。

練習中に急逝…同期だった佐藤真紀さんへの思い

――入団した年の5月、同期の佐藤真紀さんが八丈島合宿中に昏倒して、急逝しました。私が、「女子プロの子」が死ぬことを初めて知った事故でした。

西脇 そうなんだ。真紀ちゃんは2歳年下で、中卒で入ってきたから当時15歳。Aチームで、北斗と同じエリートのできる子だったんだよね。私は、旅(地方巡業)とかにも置いてかれるBチームで、八丈島のときはAチームが練習中に大騒ぎしはじめたから、「なんだ、なんだ?」って。

――入団間もないから、同期の関係性はそれほど深くなかったのではないですか。

西脇 いや、私は全女の寮で同じ部屋だったの。真紀ちゃんと神崎文枝、私と浅生恭子の4人だったかな。バク転がすごくできる子でね。体操をやってたから。ごはんを食べに出たときに、事務所の前で「バク転見せてー」なんて言ったら、何回でもやってくれるの。あんなに元気だった子が、なんで早く逝っちゃったんだろうっていうショックはありましたけど、でも同じチームだった北斗のほうがつらかったんじゃないかな。

――同期を失ったことで、プロレスを続けることが怖くなりませんでしたか。

西脇 それはなかった。最期の瞬間を見てないからだと思う。衝撃的ではあるんだけど、現実的ではなかったというか。なんか、テレビの向こうで起こった感じ。お葬式で、みんなで泣いてたのは覚えてる。

命日には同期でお墓参りも

――今でも命日になると同期で集まって、お墓参りをするそうですね。

西脇 そう、そう。北斗ぐらい有名になってくれるとさ、真紀ちゃんのお母さんのほうから連絡をくれて、お墓がある場所を教えてもらえて。「じゃあ、みんなで集まろうか」って、北斗が口火を切ってくれて、毎年5月18日の命日は60年組同期会として集まってる。北斗、堀田、神崎、私、影かほる。大阪、名古屋からも上京する子もいて、コロナ前は半分ぐらいになったんじゃないかな。

――絆の強さを感じますね。

西脇 でしょ。もうみんな50(歳)を過ぎてるのに、ぜんっぜん変わんなくて。「こんな風に今でも会えるのはうれしいね」なんて言ってる。北斗が集まれる場を作ってくれて、感謝だよね。今ではすっかり有名になっちゃって、違うとこにいる感じだけど、(内面は)ぜんぜん変わんない。あのまんま。

――北斗さんは、同期の誇りですか。

西脇 めちゃめちゃ誇り! あと、堀田(※)がまだ現役を続けてることも誇り。笑っちゃうよね、もう57(歳)だよ。

「クラッシュ・ギャルズになんか、なれるわけない」

――堀田選手とは88年に「ファイヤージェッツ」というタッグチームを組んで、2枚のシングルレコードをリリースしましたね。“ポスト・クラッシュ”として期待されて。

西脇 しんどかったー! クラッシュ・ギャルズになんか、なれるわけないじゃん。無理だよ、無理! がんばってましたよ。がんばってたけど、クラッシュがすごすぎたから、その後に誰が何やったってかないっこない。これ以上やったって無理だってわかったから、1年で自分たちで見切りをつけたんだよね。ビューティ・ペア、クラッシュ・ギャルズのあと、あそこまで日本中の女の子たちを魅了するスーパースターって、出てきてないじゃないですか。どこに行ってもキャーキャー言われる宝塚の女子プロレスラー版。あの一世風靡はすごかった。

――充子さんは、飛鳥さんの付き人でしたよね。

西脇 そうです。ともさん(飛鳥の愛称)は近くで見ていても格好よかったし、ちこさん(長与の愛称)も、私たちの世代はみんなああなりたいと思ってたけど、なれなかった。肌身で感じてて、それこそ、北斗とみなみ鈴香の海狼組(マリンウルフ)とファイヤーで必死だったけど、なれるわけないじゃんってわかっちゃった。

――付き人時代は大変でしたか。

西脇 プレゼントがとにかく大量だったのを覚えてる。私たちは、それをあさってたの(笑)。全国から送られてくるプレゼントをマンションの一室に詰めこんで、どんどんあふれていくから、みんなで開けていって、金目のものと手紙は分けてどかして、あとで渡す。今思うとダメだよね、人がもらったものを勝手にあさっちゃ(笑)。ってぐらい、すごい量だった。付き人でいちばん大変だったのは、(試合会場で)寄ってくる人をはねのけること。「どいてください!」「さわんないでください!」って、怒鳴りながら。ファンの子が殺到しちゃって、銀バス(選手を乗せた移動バス)が揺れたんだから。

22歳の若さで引退した理由「限界を感じてたんだよね」

――揺らしていたのは、女子ですからね。80年代アイドル黄金期のすさまじさを物語っています。引退は90年。理由は何だったんですか。

西脇 私のなかで、限界を感じてたんだよね。もうこれ以上はないなって。まだ22歳。ケガもしていなかったので、続けられたんだけど、いいときに辞めたかった。懐かしいなぁ。いい時代にやらせてもらったけど、語れるほど(現役生活は)長くない。たった5年だから、ともさんから「おまえが語るな」とか言われそう(笑)。おいしいとこだけつまんで、さっさと辞めて、やりたかった俳優や歌の仕事をはじめちゃったもんだから。

――芸能界への転身は、いかがでしたか。

西脇 甘いもんじゃなかった。成功してる人はみんな、並々ならぬ努力をしてることがよくわかった。リングの上で歌を歌わせてもらったとき、すごく気持ちよくてね。あー、私って歌が好きだなぁって思って、辞めてからは友達とライブを開いたりしてたんですよ。歌の勉強をするために、26歳のときに1年半ぐらい、1人でロスに行って、ボイストレーニングを受けたり。

――単身で1年半って、かなり本格的に目指していたんですね。

西脇 あのときは、ね。日本に帰ってきてから、六本木のクラブで歌わせてもらったりしたけど、そんな人っていっぱいいる。すごい努力をしている人を見て、私、もう努力できない……ってなっちゃった。きっとね、プロレスで燃え尽きちゃったんだと思う。辞めてからは、努力とか何だっていうのができなくなっちゃったっていうのが、正直なところかもしれない。クラブで歌って、働いて、それで満足。さらに上を目指す、メジャーデビューするということを、考えなくなっていった。そのあとだね、がんになったのは。

《つづく》

(※)昨夏に両ヒザ人工関節置換手術を受け、今年3月16日の東京・新宿FACE大会で復帰。6月8日に同所で自身のデビュー39周年興行を開催予定。来年は国内女子プロレスラーで前人未到の現役40周年を迎える。

文=伊藤雅奈子

photograph by L)Takuya Sugiyama、R)東京スポーツ新聞社