紫式部が吐き出した、他の女房への批判

出仕した翌年の正月、一時実家に戻った。住み慣れた我が家は驚くほど塵が積もり荒れている。夫宣孝は既に没し、父藤原為時は健在でも、出仕中の留守を見守る家族や使用人はいなかったのか。

荒れ果てた家の有様を、

「大きな戸棚に隙間なく積み上げてあるのは古歌集や物語で、ひどく虫の巣になり、虫が気持ち悪く散り走るので開いて見る人もおりません。その片側には漢籍がきちんと積み重ねてありますが、大事に積み重ねておいた夫宣孝も亡くなり、その後は手を触れる人もありません」(『紫式部日記』)

と、自分の心と同じく住まいも荒れていることを嘆く。

出仕しても実家に帰っても心の憂さは晴れず、ふさぎ込むばかり。『源氏物語』を書くことと、それを心ある人に読んでもらうことが、唯一の心の慰めであり、拠り所であったと言う。

里帰り中に、友人の女房弁内侍が、紫式部を気遣って歌を寄越したが、それに対し紫式部は、


つれづれとながめふる日は青柳の いとど憂き世に乱れてぞふる
(里帰りしてなすこともなく、今日のように長雨の降る日は、憂さが更につのる世に思い乱れて過ごしております)

紫式部(『紫式部集』)

と返した。「ながめふる」は「長雨降る」と「眺め経る」を掛ける。「眺め経る」は視線が定まらず物思いにふけりながら、ボーッとしている状態だ。

紫式部の人生観は「世は憂し」だった。生きることは煩わしい、生き辛い。しかし生きねばならない。宮仕えの不満や人間関係がストレスとなり、溜まりに溜まって日記に爆発させ、凄まじい他の女房への批判を吐き出した。特に同業者の歌人や文筆家には激しく、その矛先は清少納言や和泉式部に向けられたのである。


清少納言こそ得意顔をして大変な女でした。あそこまで利口ぶって漢字を書き散らしていますけれど、その学識の程度も、よく見れば、まだまだ不足な点だらけです。彼女のように人と違った特別な女でありたいとばかり思って、それに執着する人は、やがては必ず見劣りし、行く末はただ悪くなってゆくばかり。

だから風流を気取り切った人は、ひどく殺風景でつまらない時にも感動し、「素敵」と思う事を見逃すまいとするうちに、自然と感心できないような軽薄な様にもなるでしょう。そのような人の成れの果ては、どうして良いことがあるでしょうか。

紫式部(『紫式部日記』)


和泉式部という人はセンスのある文を書く人です。ただ彼女には素行が感心できない面があります。気軽に日常的な手紙の走り書きをした時などには、それなりに文才の見られる人で、ちょっとした言葉にも、つややかさを感じます。歌はたいへん魅力的ですが、和歌の知識や理論などには疎く、本格的な歌人ではありません。

それでも、他人の詠んだ歌を批判する言葉の端々からは、彼女が口から出まかせに無造作に歌を詠んでいるに感じられ、こちらが感心して頭の下がるような歌人とは思われません。

紫式部(『紫式部日記』)

和泉式部に対してはいささかの文才を認めるが、清少納言は徹底的に批判する。自己顕示的な宮仕え振りも気に入らないし、学をひけらかし、それをベースにした『枕草子』に嫌悪を感じたのであろう。

現存する『紫式部集』は、


いづくとも身を遣る方の知られねば 憂しと見つつも長らふるかな  
(どこへこの身をやったらよいのやら。それも分からず、この世を憂く辛いものと見ながら生きながらえているのです)

紫式部(『紫式部集』)

で閉じられる。