国家の指導者や要人を狙ったテロ、政権転覆や国家改造を目指したクーデター...。近代日本の歴史をたどると、それらが大きく影を落としていることに気づかされる。押さえておくべき事件を概説しよう。

※本稿は、『歴史街道』2023年6月号の特集「五・一五事件の真実」から一部抜粋・編集したものです。  


狙われた近代日本のリーダーたち

日本の歴史はテロやクーデターを抜きにして語ることはできない。江戸時代の赤穂浪士の討入りもテロの一種といえるだろうし、大老井伊直弼を殺害した桜田門外の変は幕末期の政局の大きな転換点となった。

明治に入っても、新政府のトップとして日本の近代化を強力に推し進めた内務卿の大久保利通がテロに斃れた。

西南戦争翌年の明治11年(1878)、馬車に乗って赤坂仮御所へ向かう途中、紀尾井坂付近の清水谷で大久保は六人の不平士族に襲われ、日本刀で惨殺された。暗殺犯の島田一良らが携えていた斬奸状には、大久保による専制政治への不満が綴られていた。

明治22年(1889)には、外相として条約改正交渉に当たっていた大隈重信が、外務省の門前で国家主義団体玄洋社の来島恒喜に爆弾を投げつけられて負傷し、右脚を切断した。

大審院に外国人裁判官を任用するとした条約改正案が公になり、それに反対した来島が大隈暗殺を謀ったが失敗に終わり、来島はその場で自害した。大隈の遭難で、条約改正交渉も中止となった。

首相の座に4度就いた伊藤博文は、枢密院議長を務めていた明治42年(1909)、満洲(中国東北部)のハルビン駅頭で、韓国の独立運動家安重根の銃弾で帰らぬ人となった。

明治38年(1905)に初代韓国統監に就任した伊藤は、韓国併合への地ならし役と見なされ、朝鮮人の恨みを買っていた。伊藤を暗殺した安重根は処刑されたが、朝鮮では義士と称えられている。

大正期には民主主義的な改革を求める大正デモクラシーが広まったが、第一次世界大戦後の不況により、一部の人間に富が集中することへの不満が若い世代を中心に高まり、大正10年(1921)、安田財閥の創設者安田善次郎が刺殺された。犯人は32歳の朝日平吾。

少年期から家族や周囲との折り合いが悪かった朝日は、大学を中退し陸軍に入隊。除隊後、大陸に渡り馬賊に参加するが早々に離脱、帰国後に始めた事業も挫折する。次第に政治運動や労働運動に接近し、政党を立ち上げようとしたがこれも頓挫。

その後、財閥の有力者に貧困な労働者向けの宿舎を建設する資金援助を求めたがうまくいかず、安田財閥のトップを暗殺するに及んだ。

朝日はその場で自殺したが、事前に「奸富安田善次郎、巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ」「由テ天誅ヲ加へ、世ノ警メト為ス」などと記した「斬奸状」や「死ノ叫声」と題した犯行声明文を認めていた。

そのなかで、朝日は自分が先駆者として代表的な奸富を暗殺するので、同志たちには続けて暗殺を決行し、天皇の赤子が平等に暮らせる理想社会を実現してほしいと呼びかけていた。

政治学者の橋川文三は「朝日というのが、いわば大正デモクラシーを陰画的に表現した人間のように思われてならない」(『昭和維新試論』)と評する。明治期の人間には理解し得ない「平等」という概念を根源的に追求した結果、特権階級への恨みがテロへと至らしめたということである。

朝日の事件から1カ月後、大塚駅で転轍手を務める中岡艮一が東京駅で原敬首相を暗殺した。現職の首相が刺殺されるという歴史上初めての惨事だった。

中岡は取り調べのなかで、信頼する上司が朝日の犯行を賞賛したことに影響を受けたと自供した。

大正12年(1923)には、摂政宮裕仁親王(昭和天皇)が帝国議会の開院式に向かう途中、虎ノ門で無政府主義者の難波大助に狙撃された。弾丸は逸れ、難波はその場で逮捕、翌年に処刑された。

難波は大逆事件や関東大震災での官憲の弾圧に憤り、報復テロを決意したのだった。取り調べでは「日本の権力者に対し反省をうながす道は、テロによる外、他に方法がない」と語った。

昭和4年(1929)に首相となった浜口雄幸は国際協調外交を唱え、ロンドン海軍軍縮条約を締結したが、条約調印は統帥権干犯であると野党や海軍軍令部、右翼などから激しく反発を受けた。

翌昭和5年(1930)、不満を抱いた愛国社の佐郷屋留雄から、原と同じく東京駅で狙撃され、重傷を負った。浜口は容態が悪化し、翌年4月に内閣総辞職、8月に死去した。

こうして、大正から昭和初期にかけて、テロの連鎖に日本社会は徐々に萎縮していった。


満洲事変を挟んだ「2つ」のクーデター未遂

昭和初期、政権転覆を狙う複数のクーデターが企てられ、それとともに軍部の発言力が増し、やがて太平洋戦争へと突入するが、その起点といえるのが昭和6年(1931)の満洲事変を挟んだ3月事件と10月事件だ。

3月事件とは、陸相宇垣一成を擁して政権を奪い、国内改革を断行しようとしたクーデター未遂事件である。

昭和5年、参謀本部ロシア班長の橋本欣五郎中佐らを発起人として、軍部独裁政権の樹立を目的とする桜会が、陸軍の佐官級軍人たちを中心に結成された。彼らは思想家の大川周明から影響を受け、武力による国家改造を目指した。

当時の陸軍は宇垣陸相の派閥が主流で、宇垣閥の参謀次長二宮治重中将や参謀本部第二部長建川美次少将、陸軍省軍務局長小磯国昭少将らは、宇垣を担いだ内閣を構想した。

昭和6年1月、二宮は桜会の橋本中佐らを呼んで、宇垣が政権を奪取する計画を立てることを促した。

橋本によれば、先に国家改造を決心したのは自分であり、それを二宮らと協議したとのことだが、いずれにしても、桜会と大川ら民間グループ、それに陸相周辺の将官らが連携するかたちで、宇垣政権樹立を目論むクーデターが画策された。

その計画は、帝国議会開催中の3月20日、大川がデモ隊をもって議会を包囲する一方で、右翼が政友会、民政党本部、首相官邸を襲撃。軍が治安維持のため出動し、軍代表が浜口内閣(幣原喜重郎首相代理)に総辞職を強要、元老の西園寺公望に使者を立てて、宇垣陸相のもとに大命を降下させるというものであった。

だが、3月に入り、当の宇垣が参加を拒否したため計画は未遂に終わった。

すると橋本らは、関東軍が進める満洲への侵略に呼応するかたちで、国家改造クーデターを実行しようとした。9月に満洲事変が勃発すると、事変不拡大方針の第二次若槻礼次郎内閣を倒すクーデターを計画したのだ。

計画には、桜会の隊付青年将校らのグループに大川周明、北一輝、井上日召、西田税、橘孝三郎ら民間右翼も加わった。

桜会の将校が率いる陸軍兵力、海軍航空隊、右翼勢力などが、若槻首相以下、政党幹部、財界人を殺害し戒厳令を布告。教育総監部本部長の荒木貞夫中将を首班とする軍部政権を樹立しようという企てだった。

だが、10月事件も事前に計画が発覚し、未遂に終わった。

この2つの事件は戦後まで大きく報じられることはなかったが、当時の政財界に与えた衝撃は大きかった。軍人の政治関与と暴力的な直接行動の端緒となったのが、3月事件・10月事件だった。