鎌刃城は、滋賀県の北部「湖北」エリアでは小谷城に次ぐ大規模な山城で、北と南の2つの勢力を争う中間地点に築かれました。これまで中世では一般的に見られるような土づくりの山城と考えられてきましたが、平成の発掘調査によって「先駆的な山城」であったことが判明! 全国的にも発見されるのが珍しい岩盤を掘り込んだ水の手遺構や、安土城築城より前にあった「大櫓」の存在など、鎌刃城の魅力をあますところなくお伝えします。

乱世の板挟み!「境目の城」鎌刃城の運命は……

鎌刃城(滋賀県)は、琵琶湖や中山道、周辺の山城を臨む標高384mの山に築かれた山城です。江北(現在の滋賀県北部)を拠点としていた浅井氏・京極氏と、江南(現在の滋賀県南部)を拠点としていた六角氏の勢力がぶつかる「境目」に位置します。

文明4年(1472)、堀次郎左衛門が城主の時に京極氏の家臣・今井秀遠(いまいひでとお)に攻められました。城の名前が登場するものではこの記録が初見です。そして、天文7年(1538)には六角定頼に攻められ落城。鎌刃城主・堀石見は六角氏方に属します。

度重なる抗争・城主入れ替えの中で再び浅井氏方に属していた鎌刃城ですが、歴史が動いたのは元亀元年(1570)のこと。織田信長と浅井長政の対立です。織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の説得により時の鎌刃城主・堀秀村は織田方につき、織田・浅井が戦った「姉川の戦い」で浅井氏が滅亡すると湖北支配を任されました。

ところが一転、天正2年(1574)に堀氏は突如改易され、まもなく鎌刃城も廃城になったと考えられています。一説によると、湖北地域が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に与えられたことで関係性に亀裂がはいったのかもしれません。

築城年代や築城者は不明ですが、まさに戦国時代ど真ん中を“生きた”戦国時代の山城です。