1986年の夏をいまも時々思い出す。

 僕は16歳で、漠然とした未来を前にした80年代の多くの若者と同じように、特にやることも決められないままに日々を過ごしていた。

 幼少期を過ごしたオランダから移り住んできたばかりで、ロンドンのことは何も分からず、友達もほとんどいなかった。学校が長い休暇に入ると家の中を意味もなく歩き回っては、ただ時間をつぶしていた。僕は孤独なティーンエージャーだった。

 そんな息子を見かねたのだろう。ある日父がこう言った。

「フットボールの文章でも書いてみたらどうだ?」

 父は文化人類学の教授で、僕からしてみればたいそう高尚な論文を複数の雑誌に寄稿していた。

 あの頃の僕はフットボールの虜だった。雑誌を隅から隅まで読んでいたこともあり、オランダのフットボールに関する知識量は国外のどんなジャーナリストよりも豊富だった。

 父のアドバイスを受けた僕は試しに当時のオランダの若手についての文章を書いてみた。選手の名はルート・フリット。当時PSVアイントホーフェンでプレーしていた偉大なるフリットが、僕にとって初めての執筆対象となったわけだ。

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 その文章を書いた原稿用紙を丁寧に封筒に入れ、『ワールドサッカー』誌に郵送した。

 編集部から便りが届いたのは数日後のことだ。僕の文章を掲載記事として採用するという連絡だった。ワールドサッカーは原稿料として30ポンドを提示してきた。80年代のティーンエージャーにとってはとても大きな額だ。インターネットがすべてを変える前、ジャーナリズムの支払いが良かった時代というのは確かに存在したのだ。

 そうして僕はワールドサッカー誌に寄稿するようになった。フリットがバロンドールに輝いた87年には、オランダに関する連載コラムを月イチでもたせてくれた。それからというもの、僕はプロのジャーナリストとしてフットボールについての文章を書き続けている。『ワールドサッカーダイジェスト』誌には2009年から寄稿しているので、まもなく15年だ。ひとまずはこれが定期連載としては最後となる。
 
 その最終回に綴るのは、僕とフットボールの過去と未来、変わりつつあるスポーツジャーナリズムについての物語だ。

 大学時代はフットボールの記事を書き続けた。ある時、サンフランシスコで強盗にあったことを題材にした文章で学生コンクールを制し、あるエージェントが「その作品を読んだ」と連絡してきた。本として何か書きたいテーマはないか、と。

 僕には書くべきことがあった。世界各国のフットボール文化についてだ。驚くべきことにそのエージェントは出版社との契約まで漕ぎつけ、5000ポンドのアドバンス(出版社が事前に原稿料の一部を支払うこと)を準備してくれた。そして僕はリュックサックにタイプライターを詰め込んで世界22か国を周った。宿はもちろん、長距離列車とユースホステルだった。
 
 1994年に上梓したその『サッカーの敵』では、長く思い描いていた手法を実現することができた。スポーツを真摯に見つめ、フットボールを超えたところにある世界を描き出すこと。僕は長い旅で出会った人々との物語を文章で描いていった。

 世界にはさまざまな人がこのスポーツの虜になっていた。フットボールに取り憑かれたアルゼンチンの極右の将校がいた。東ドイツの秘密警察に「西ドイツのフットボールクラブを応援した」と咎められ、国外への強制退去処分を受けた男がいた。

 旅の途中に有名選手とも出会った。カメルーンのロジェ・ミラに、イングランドのボビー・チャールトン。僕は出会った選手たちのことを英雄として、あるいは悪役としては書きたくなかった。ある限定された事象において、つまりフットボールにおいて彼らは優れていた。けれどピッチを離れれば、彼らはさまざまな悩みを抱えていて、僕やあなたとそれほど変わらないひとりの人間なのである。

 今日に至るまで、僕はその想いを抱いて文章を書き続けてきた。

【中編】に続く

文●サイモン・クーパー 
翻訳●豊福 晋

著者紹介/ヨーロッパを代表する著述家。英経済紙『フィナンシャル・タイムズ』などで健筆を振るう。スポーツを人類学的見地から考察する新たなジャンルを切り開き、1994年、サッカーの裏側に迫ったエポックメーキングな名著『サッカーの敵』を上梓し、ウィリアム・ヒルが主催する「スポーツ・ブック・オブ・ザ・イヤー」を獲得した。ウガンダ生まれのイギリス人で、オランダ、アメリカ、スウェーデン、ジャマイカで育ち、イギリスとアメリカで教育を受けた、ワールドワイドなバックグラウンドの持ち主だ。1969年生まれ。

※『ワールドサッカーダイジェスト』2024年1月18日号の記事を加筆・修正