時が経つにつれ、僕は常にスポーツだけを書くことに疑問を抱くようになってきた。スポーツというのはあまりにも限定された、小さなフィールドだからだ。すでに20代前半の頃から、監督の解任劇やそのとき話題のスター選手、ビッグクラブの驚きの敗退など、日常茶飯事ともいえるフットボールの出来事について、あまり惹かれなくなっていた。

 僕は自分の人生で、もっと大切なことを書き残したかった。なぜ豊かな人と貧しい人が出てくるのだろう。いったいなぜあの戦争は起きたのか。民主主義や社会主義について。そんな思いを胸に、僕は1995年から英紙『フィナンシャル・タイムズ』と仕事を始める。同紙はビジネスと政治専門のメディアで、当時はスポーツ欄すらなかった。

 僕がジャーナリズムの世界へ足を踏み入れたタイミングは最悪だった。フィナンシャル・タイムズ紙に書きはじめたのが、ジャーナリズム栄光の時代が終焉を迎える頃だったからだ。ちょうど95年頃までは人々に新聞を購入する習慣というものがあった。

 ニュースへの興味云々は別として、それがあたかも当然の行為であるかのように、人は日々新聞を手にしたものだ。株価を知るためにも紙面を確認しなければならなかった時代だ。ひいきのスポーツチームの結果確認、テレビの番組表としても欠かせなかった。

 新聞だけではない。インターネットが台頭する前まで、人々は雑誌にエンターテイメントを求めていた。

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 95年は世界的なウェブブラウザ『ネットスケープ』がローンチされた年だ。情報は突然、無料で入手できるものに姿を変えてしまった。新聞業界は不況に陥り、それは現在も続いている。おそらく幸運なことなのだろう。僕はそんな中でふたつのキャリアを同時進行していた。昼間は真面目な(そして時につまらない)原稿をフィナンシャル・タイムズに書き、夜はフリーランスでフットボールの記事を書くという具合にだ。

 2002年、フィナンシャル・タイムズは僕をスポーツ担当に配した。僕の意向とは逆に、フルタイムのスポーツライターとなったのだ。その時、絶対にこうはなるまいと決めていたスポーツライターの姿があった。

 それまでに僕は多くの同業者を見てきた。スポーツライターの多くが求めているのは、ひと言に集約できる。「アクセス」だ。選手や監督と顔見知りになり、親しい関係になることだ。

 以前はロッカールーム前、現代ではミックスゾーンで記者たちはシャワーを終えた標的を待ち構える。記者同士が押し合いながら自らの場所を確保する、縄張り争いのような戦いがそこにはある。そして選手が顔を出せば、一斉に叫ぶ。

「ジョー、ひと言お願いします! ジョー!」

 ジョーが立ち止まるか、あるいは記者に友好的に呼び寄せられれば、混雑した通勤電車のような地獄が始まる。

 ジョーの顔に録音機のマイクをできるだけ近づけることが彼らの仕事だ。そしてジョーは試合を振り返り、何度も聞いたことのあるような話を繰り返す。
 
 記者会見はもっとひどい。

 2012年、ウクライナのドネツクで僕は最大の失望を経験した。その時はEURO2012が開催中で、イングランド代表監督のロイ・ホジソンと主将のスティーブン・ジェラードが試合前日会見を行なった。とくに紙媒体のメディアは危機的状況にあったにもかかわらず、西欧メディアの数百人が莫大な経費をかけて東の果てまで駆けつけていた。

 会見が行なわれた30分間、主役ふたりの口から出てきたのは決まり文句だけだ。そして試合後にはいつもと同じことがミックスゾーンで繰り返され、誰もが似通ったマッチレポートを書いた。その1年10か月後、ロシアが初めてドネツクに侵攻した際、現地を訪れた西欧の記者は極端に少なかった。

 この種のジャーナリズムは僕が望むものではなかった。他の人と同じことを書くことに一体なんの意味があるのだろう。それは自分が代替可能な存在ということを自ら証明していることになる(今日ではそれはAIによって証明されつつある)。

 選手や監督と話すことにあまりに多くの時間を費やすと、常套句と間抜けさの海で溺れることになってしまう。フットボールジャーナリズムにはびこるナンセンスな日常に、僕はある意味で失望してしまった。

【後編】に続く

文●サイモン・クーパー 翻訳●豊福 晋

著者紹介/ヨーロッパを代表する著述家。英経済紙『フィナンシャル・タイムズ』などで健筆を振るう。スポーツを人類学的見地から考察する新たなジャンルを切り開き、1994年、サッカーの裏側に迫ったエポックメーキングな名著『サッカーの敵』を上梓し、ウィリアム・ヒルが主催する「スポーツ・ブック・オブ・ザ・イヤー」を獲得した。ウガンダ生まれのイギリス人で、オランダ、アメリカ、スウェーデン、ジャマイカで育ち、イギリスとアメリカで教育を受けた、ワールドワイドなバックグラウンドの持ち主だ。1969年生まれ。

※『ワールドサッカーダイジェスト』2024年1月18日号の記事を加筆・修正