子どもを大人しくさせるために便利なスマホやタブレット。大人がラクを出来る代わりに、親子関係に重要な経験を失う可能性がある……。「『叱らない』が子どもを苦しめる」(筑摩書房、高坂康雅氏と共著)を上梓したスクールカウンセラーの藪下遊氏が解説する。【藪下遊/スクールカウンセラー】
(全3回の3回目)

1回目【友達に彫刻刀を突きつけた小3女児が、逆に「いじめられた」と訴え 不登校29万人超の背景に「問題を認められない」親子】
2回目【子どもに「耳が痛いこと」を言う人がいなくなった時代に親がすべきこと 現役スクールカウンセラーが警鐘】を読む

お好み焼き屋でスマホ

 1〜2歳頃の子どもは「自分の思いと親の思いは違う」ということを意識し始めて自己主張が強くなってくる「イヤイヤ期」を迎えます。

 近年、この「イヤイヤ期」にイヤイヤ言わせないように奔走している親を見るようになりました。「イヤイヤ」を静めるにあたり、非常に便利なのがスマホやタブレットなどのデジタルメディアです。便利なものではありますが、使い過ぎるとマイナスが大きくなります。

 2歳になる子どもがいる30代の母親。ある日、家族でお好み焼き屋に行くことになった。子どもは鉄板に触ろうとしたり、ソースをひっくり返そうとしたり、動き回って大変である。そこで、今まで触らせたことがなかったスマホを与え、動画を観させておく。すると、約2時間の間、一度もぐずることなく大人しくしている。

大人しくなる代わりに失うもの

 確かにスマホで動画を観させておけば、子どもは大人しくなりますし、そのぶん、親はラクをすることができるでしょう。これは一見、良いことのように思えるかもしれませんが、「現実を伝え、その苦しさを支える」という体験が生じにくいというリスクがあります。

 子どもにスマホを見させて大人しく過ごさせると、本来なら起こるはずの出来事(鉄板を触ろうとして止められる→泣く→慰められる、ソースをひっくり返そうとして止められる→怒る→なだめる等)が生じなくなっています。

 こうした出来事は面倒で厄介で避けたいと思うのが人情かもしれませんが、そのまま「現実を伝え、その苦しさを支える」という体験の積み重ねでもあります。

 スマホやタブレットを長時間使う日常を送ることで認知機能などにネガティブな影響が出ることは知られていますが、「こころの専門家」としては、本来生じるはずだった親子の「ごちゃごちゃとしたやり取り」が無自覚のうちに失われるという点に大きな問題を感じています。

スマホを使っている親をチラチラ……

 これは、親がスマホを使う場合でも同様です。

 テレビは「一緒に同じものを観る」という体験の共有ができるのでまだマシですが、スマホやタブレットは完全に「個人の世界」に没入することになります。子どももそのことがわかっているのか、親がスマホやタブレットを見ていると明らかに話しかけてくることが減ります。

 じっと子どもを観察してみてください。子どもは親の方をチラチラ見ているものです。その時、親がスマホに集中していたら話しかけてきません。そうやって知らないうちに「関わりの機会」を逃していることになります。

 もちろん、スマホを使うなとは言いませんが、子どもが話しかけてきたら画面から目を離し、スマホやタブレットを伏せて子どもの方を見てあげましょう。それだけで「スマホなんかより、あなたの方が大切だよ」ということが伝わります。また、それが伝われば、そのうち親がスマホを見ていたとしても、遠慮なく話しかけてくるようになります。そうなれば、親が忙しくしていようが「ねーねー」と話しかけてきて大変になりますが、そうした大変な関わりの中で「ごちゃごちゃとしたやり取り」を積み重ねていくことが重要なんですね。

児童期の「こころのテーマ」を知っておこう

 最後に、児童期(小学校の前半)に子どもたちが身につけていくことが大切な「こころのテーマ」についてお話ししておきましょう。

 児童期のテーマをよく描写しているのが「ドラえもん」です。ドラえもんでは、いつものび太が現実世界で敗れたときに「ドラえも〜ん、なんとかしてよぅ」と秘密道具をねだります。ドラえもんは「仕方ないなぁ」と秘密道具を出してあげるわけですが、オチはいつも同じで、(1)秘密道具を好き勝手に使って酷い目に遭う、(2)みんなで秘密道具を共有して調和的に遊ぶ、のいずれかになります。

 精神科医の中井久夫先生は、上記は「現実原則を裏から教えるもので、多分、ドラえもんは、のび太を、児童期の現実原則にみちびき、空想の世界に退却してしまわないようにと、未来世界からつかわされたのだろう」としています。

 現実原則とは「現実の世界に適応するために、快楽だけを追い求める欲求を調節しようとするこころの働き」を意味します。つまり、秘密道具という「好き勝手できるもの」を無法に使っていてはロクなことにならない、好き勝手したいという欲求にそれなりに手綱をつけておくことが大事なんだよ、自分の欲求のまま動くのではなくみんなで協力しながら物事をこなすものなんだよ、ということです。こうしたことを児童期では身につけていくことが重要になります。

小学校の枠組みの“不自由さ”も意味がある

 小学校に入学すると、それまで保育園という比較的ゆるやかな枠組みで活動していた子どもたちが、小学校というより社会性を帯びた枠組みへ移行することになります。今まで「それなりに好きなようにできていた環境」から、そうではない環境に移るわけですから、中には不快を示す子どももいるでしょう(特に現代では)。

 でも学校の枠組みは、子どもを管理するとか、思い通りに操作するとか、勉強に集中させるとか、そんな薄っぺらな理由のために設けられているわけではありません。上記で示したような、児童期に獲得することが求められる「こころのテーマ:好き勝手したい欲求に妥協すること、周囲と協力すること」をクリアしていく上で、このような小学校の枠組みが欠かせないのです。

 よく小学校にあがったばかりの子どもがいる親から、「保育園ではもっとこうしてくれたのに」「ちゃんとうちの子の気持ちや言うことを聞いてあげてください」という意見が出されます。ですが、せっかく子どもが「現実に出会ってもがいている」のですから、大切なのは現実(学校)の方を変えようとするのではなく、もがいている子どもの苦しさを共感的に受けとめ、支えてあげることです。それが、子どもが自らの欲求に手綱をつけ、自分をコントロールし、周囲と調和するために大切なことになるのです。

親が無力であることの価値

 さて、ここまで読んでいただければわかると思いますが、言いたいことは結局、「子どもに起こる現実を真摯に伝えていきましょう」「現実に向き合う子どもを支えていきましょう」ということです。親の支えがあれば、子どもたちはその年齢で出会う程度の「現実」には、きちんと向き合い、成長の糧とすることができるものです。

 また、子どもが成長するほどに、親は子どもの「現実」に手が出せなくなります。

 小学生ならば、宿題の手助けができるでしょうけど、高校生になればそうはいきません。いつかは、子どもたちが出会う現実に対し、親が無力になる日が来るのです。でも、無力で良いんです。無力だからこそ「ただ支えること」に集中することができるのです。

 下手に「現実」の方を変えてしまえる力を親が持っていると、いつまでも子どもは「現実」を通した成長を遂げることが難しくなります。親は自身の無力さを、子どもの成長のしるしと思って受け容れていくことが大切だということです。

 なお、本稿の事例については、(1)本人および親から掲載許可が取れており、本質を失わないことに留意しつつ、個人情報が特定されないように改変を加えたもの、(2)いくつかの類似した事例を組み合わせたものであり、厳密にはフィクションになりますが、実際の事例と遜色のないものになっています。

引用文献・参考文献
中井久夫(2011)『「つながり」の精神病理 中井久夫コレクション』ちくま学芸文庫

藪下 遊(やぶした・ゆう)
1982年生まれ。仁愛大学大学院人間学研究科修了。東亜大学大学院総合学術研究科中退。博士(臨床心理学)。仁愛大学人間学部助手、東亜大学大学院人間学研究科准教授等を経て、現在は福井県スクールカウンセラーおよび石川県スクールカウンセラー、各市でのいじめ第三者委員会等を務める。「『叱らない』が子どもを苦しめる」(筑摩書房、高坂康雅氏と共著)を上梓。

デイリー新潮編集部