その衝撃的なデビュー戦に、誰もが夢を見た。ディープインパクトが去った競馬界に颯爽と現れ、「ポスト・ディープ」と目された駿馬は、敗れてなお“過剰な期待”を背負いつづけ……。長く競馬界を見つめる筆者が、ファンに鮮烈な印象を残した「消えた天才」の蹄跡を振り返る。(全2回の1回目/後編へ)

「ディープロス」の競馬界に現れた新星

「○○ロス」という言葉で最も知られているのは、ペットとの別れを悲しむ「ペットロス」だろうか。テレビドラマの「あまちゃん」が終了したあとは、「あまロス」という言葉もしばしば聞かれた。

 競馬界にもそれがあった。

 ディープインパクトが引退したあとの「ディープロス」である。

 圧倒的な強さで「無敗の三冠馬」となり、競馬界の枠を超えたスーパーヒーローとなったディープは、2006年の秋、凱旋門賞失格というショッキングな報せからほどなく、その年限りで引退することが決まり、有馬記念を勝ってターフを去った。

 管理した池江泰郎調教師(当時)をはじめとする陣営も、主戦騎手の武豊も、ファンも、メディアも、主催者さえも、大きな喪失感を抱えたまま2007年の年明けを迎えた。

「ディープのいない競馬」は、ピンと張り詰めたものがなく、空気の抜けた風船のようだった。「ディープの仔に夢を託そう」と、いろいろなところで言われていたが、産駒がデビューするのは3年半後だ。

 誰もが「ディープロス」に襲われ、胸にあいた大きな穴を埋められずにいたとき、その馬は現れた。

 オーシャンエイプスである。

 父マヤノトップガン、母リターンキャスト(母の父ノーザンテースト)。叔父にセントウルステークスを連覇したゴールデンキャストがいる良血だ。2004年3月19日にバンダム牧場で生まれた鹿毛の牡馬で、栗東の石坂正調教師(当時)が管理し、「サンライズ」の冠で知られる松岡隆雄氏が所有した。

軽く流して2着に8馬身差…衝撃的なデビュー戦

 デビューは実に華々しく、そして、衝撃的だった。

 ディープの引退から約4週間後、2007年1月20日、京都芝1800mの3歳新馬戦。11頭立てとなったこのレースで、オーシャンエイプスは単勝1.4倍の圧倒的1番人気に支持された。

 鞍上は武豊。

 ゲートが開いた。オーシャンエイプスは4番枠からゆっくりとしたスタートを切り、中団の外目につけた。先頭からは5馬身ほど。持ったままで3コーナーを回り、武が軽く促すと大外に進路を取った。

 前との差を縮めながら4コーナーを回り、先行する内の2頭に並びかけて直線へ。

 右手前のまま内に切れ込みながら、あっと言う間に先頭に躍り出た。武がステッキを右手に持ち替えて進路を修正すると、手前を左にスイッチし、さらに末脚を伸ばす。

 武は手綱を持ったままなのに、後ろとの差が見る見るひろがって行く。ラスト200m手前で、武がターフビジョンに目をやってリードを確かめた。

 後続との差はさらにひろがり、ラスト100mあたりで、武は、今度は股の下から後ろとの差を確認した。

 激しい2、3番手争いを繰りひろげる馬たちを尻目に、オーシャンエイプスは、軽く流したまま2着を8馬身突き放してゴールした。

 呆れるほどの強さだった。

 レース後、武はこうコメントした。

「追えば飛ぶかもしれない」

 その言葉に、「ディープロス」にとらわれていた私たちは食いついた。

「飛ぶ」というのは、武がディープの走りを評して使った言葉である。こんなに早く「ディープロス」を埋めてくれる駿馬が現れるとは――。

ディープを知る武豊が「この馬も『飛べる』素材です」

 一躍注目の的となったオーシャンエイプスの次走は、2月11日のきさらぎ賞になった。

 500万下(現行の1勝クラス)を使うのではなく、「飛び級」での重賞挑戦となることに、誰も疑問を抱かなかった。

 きさらぎ賞の追い切りに騎乗した武は、自身の公式サイトにこう記した。

「これは本物だと思います。ディープインパクトと比較するのはまだ早すぎますが、この馬も『飛べる』素材です。今朝だって、軽くですが飛んでいました」

 新馬戦直後の「飛ぶかもしれない」から「軽く飛んだ」へとステップアップした。ならば、次は「思いっきり飛んで」圧勝するに違いない――と多くのファンが考えた。

 その結果、オーシャンエイプスは、単勝1.3倍の圧倒的1番人気に支持された。

 きさらぎ賞のゲートが開き、8頭の出走馬がターフに飛び出した。

 オーシャンエイプスは後方の外目をマイペースで進む。

 3コーナーを回りながら、先頭のアサクサキングスがロングスパートをかけ、2番手との差を7、8馬身にひろげた。

 それを追いかけるようにオーシャンエイプスは3番手までポジションを上げ、4コーナーを回って行く。

 アサクサキングスが先頭のまま直線に入った。オーシャンエイプスは3馬身ほど後ろで仕掛けのタイミングをはかっている。あとはここから「飛ぶ」だけだ。

 武がゴーサインの右ステッキを入れた。

 しかし、前との差は縮まらない。

 オーシャンエイプスは最後まで「飛ぶ」ことなく、内の馬に競り落とされ、外から来た馬にもかわされ、勝ったアサクサキングスからコンマ6秒離された4着に敗れた。

「ポスト・ディープ」の重圧を背負いながら走りつづけた

 つづく500万下のアザレア賞は、武が中山のニュージーランドトロフィーでスズカコーズウェイに騎乗するため幸英明に乗り替わり、3着。武に手綱が戻った青葉賞は7着。4カ月ほどの休み明けとなった国東特別(500万下)でも5着と勝てなかった。

 デビュー6戦目、9月の箕面特別(500万下)でようやく新馬戦以来の勝利を挙げると、10月の三年坂特別(1000万下)、11月のウェルカムステークス(1600万下)と3連勝。何よりこの馬らしさを表していたのは、新馬戦から8戦目のウェルカムステークスまですべてが1番人気で、うち6戦が1倍台だったことだ。

 オーシャンエイプスは、8戦4勝で終えた3歳シーズンを、ずっと「ポスト・ディープ」の重圧を背負いながら走りつづけたのだ。

引退後は乗馬に…現在の所在は確認できず

 4歳初戦のダービー卿チャレンジトロフィーは、武が同日の大阪杯でメイショウサムソンに騎乗するため後藤浩輝が手綱をとって、7着。武が鞍上に戻ったオーストラリアトロフィーで通算5勝目をマークした。結局、それが最後の勝利となった。

 次走の安田記念で9着に敗れてから2年半の長期休養を経て2010年の12月に復帰したが、11年春に骨折してまたも長期休養を余儀なくされる。

 復帰戦となった8歳時、2012年6月の福島テレビオープンで10着に敗れたのを最後に引退。乗馬となった。

 引退した翌年、馬術の競技会にデビューするなど、元気に過ごしている様子をネットでも見ることができた。

 今はどうしているのか問い合わせたところ、所属していた滋賀の乗馬クラブをすでに退厩しており、所在が確認できなくなっているとのこと。

 周りが過剰な期待をかけ、ディープと重ねて注目したがゆえに尻すぼみに終わったように感じられるが、オープンまで駆け上がり、通算で9000万円近い賞金を稼いだ、強い馬だった。

 まだディープの記憶が新しい時期に、人々の胸から「ディープロス」をぬぐい去り、大きな夢を見せるという、この馬にしかできない仕事をした。その意味では「名馬」と言っていいだろう。

<つづく>

文=島田明宏

photograph by Yuji Takahashi