井深大、兄盛田昭夫とともに黎明期からソニーの発展を支え続けたビジネスリーダー、盛田正明氏。ソニー・アメリカを指揮し売上スケールを10倍に拡大、ソニー生命では社長兼会長として、金融事業の大きな成長を実現させた。

70歳でソニー退任後は盛田正明テニス・ファンドを設立、ソニーで培ったリーダーシップで、錦織圭ら世界で活躍するプロプレーヤーを輩出。日本テニス協会の会長としても、組織の変革を行い発展に寄与した。

華々しい経歴を持ち、96歳の今もなお世界を飛び回る盛田氏。そのリーダーシップは、ソニー在籍中、井深大に鍛え上げられた。世界のビジネス史に残るソニーの創業者、井深大との交流を振り返る。

※本稿は、盛田正明・神仁司共著『人の力を活かすリーダーシップ』(ワン・パブリッシング)より、内容を一部抜粋・編集したものです。


井深さんとの出会いは学生時代

井深さんと最初に会ったのは、私が東京工業大学へ通っている時でした。品川の荏原町駅のそばにあった義理の兄が持っていた家を借りて、兄の昭夫と一緒に住んでいました。

昭夫たちは会社がまだ小さかったせいなのかは知りませんでしたが、よくこの家で会議をしていました。私が1階で勉強をしていて、会議は2階で行われていました。その時のメンバーに、井深さんが必ず入っていたのです。井深さんは私より19歳年上で、「おい、勉強しているか」というのが、いつもの第一声でした。

あの頃は、ご飯をみんな自分で炊いて食べていました。パン屋がちゃんとしたパンを作ってくれなかったから、パンを自分の家で焼きました。四角い箱の両脇に鉄板を入れて、ドロドロのパンの素を入れるとグチュグチュいって、フワーッとパンが焼けるのです。

そのパン焼き器に、私が横に"スピードベイカー"と書きました。あっという間に焼けるからです。当時流行りの車で、スチュードベーカー(Studebaker=アメリカの車両メーカー、1852〜1967年)いう車がありました。

私は、それをもじったわけですが、井深さんが来て、「おまえ、なかなかいいことを考えるな」って褒めてもらいました。井深さんに初めて褒めてもらった思い出です。当時の東京通信工業(現在のソニー)では、電気ざぶとんも作っていた時代でした。


設立趣意書に込められた思い

長兄の昭夫と井深さんたちは、前身の東京通信研究所を経て1946年5月に東京通信工業を設立。井深さんによる設立趣意書には、次のように記されていました。

「真に人格的に結合し、堅き協同精神をもって、思う存分、技術・能力を発揮できるような状態に置くことができたら、たとえその人員はわずかで、その施設は乏しくとも、その運営はいかに楽しきものであり、その成果はいかに大であるか」

私が東京通信工業に入社したのは1951年4月のことでした。技術者として入社した私が一番お世話になったのは、井深さんです。井深さんは、昭夫たちとソニーを創業した、後世に残る起業家です。

設立趣意書には、「他社の追随を絶対許さざる境地に独自なる製品化を行う」と記し、他人のやらないことをやることをスローガンにしていました。そして、日本初のテープレコーダー(1950年)、日本初のトランジスタラジオ(1955年)などを開発しました。

1992年11月には、一企業の経営者として文化勲章を受章されました。