シルスキーは突如、アフディフカを守る兵士たちに全面撤退を告げた。しかし、「時すでに遅し」であった。分断されたウクライナ軍は相互の交流も途絶え、とうとう2月18日、総崩れを起す。

武器もなにもかも残したまま、軍は崩壊しながら退却を始めたのである。この崩壊の状況は、ウクライナ軍にかなり大きな衝撃を与えたと思われる。

アフディフカ要塞陥落が戦争の転換点に

アフディフカの崩壊は、ある意味第2次世界大戦のスターリングラード(ボルゴグラード)の戦いに近い象徴的意味を持っていたと思われる。それは2014年以後のウクライナによるドンバス干渉の最大の基地が失われたからである。

これは10年にわたる戦争の転換点ともなる敗北かもしれない。崩壊以後、ロシア軍の勢いは止まらずどんどん西進している。もちろん、まだまだ防衛戦はあるがアフディフカの象徴的意味は大きいともいえる。

それはアフディフカが、ドンバスのドネツク近郊に位置する戦略上の重要都市であったことで、ドンバス地域をウクライナから分離独立させない重要な戦略上の地点であったからだ。ここからの攻撃が行われうる限り、ドネツク奪還もありうるという国民の期待を背負った要塞でもあった。

この都市が失われれば、ロシアにとってもはや目障りの地点はなくなる。と同時にウクライナのドンバス奪還の望みが断たれる。そうなるとウクライナに、自由に侵攻することができるようになるからである。

ゼレンスキーはその頃、ドイツとフランスに出向き援助を取り付けてきたが、もはや援助によって、戦況が変わるという状況ではなかった。その意味で、NATO諸国がこれ以上深入りをしても、全体の戦況が有利になる可能性はないともいえる。

はっきりいえば、ここらで停戦を打つ潮時とも言える。