原さんは母方の実家がある山口県萩市に生まれ、福岡の北九州市で育ちました。名前の晋(すすむ)は、萩市出身の尊王攘夷志士、高杉晋作から一字をもらったそうです。

「両親はともに京都の大学を卒業していて、夫婦で北九州市の和食器を扱うセレクトショップをしていました」

原さんの自宅があった地区は新興住宅地だったため、治安の問題はなかったものの、進学予定だった中学校は隣の地区にあり、当時はとても荒れていたそうです。

両親はそれを回避するために、原さんに国立の福岡教育大学附属小倉小学校の受験を勧めました。

「経済的にも私立に通わせる余裕がない状況だったので、国立のみの受験でした。当時の附属小倉小学校の入試は、1次試験が筆記試験、2次試験は抽選だったのですが、運よく合格できたのでよかったです。

自分の姉は抽選で落ちてしまって地元の公立小学校・中学校と進むのですが、中学校では1階のガラスがすべて割られたり、机を焚き火として燃やしていたり、先生が金属バットで殴られたりといった状況で、まともな授業が3年間ほぼ行われなかったそうです……」

高校で大きな転機を迎える

一方、原さんが通っていた小学校では行事が盛んで、とても充実した日々を過ごせたそうです。福岡教育大学附属小倉中学校に進学してからも楽しい生活は変わらず、サッカーを始める傍ら、学業面では138名いた同級生の中で、半分〜20位以内くらいの成績をキープしていました。

「私が通っていた小・中学校は国の実験校ということもあり、ほかの地区に比べても教育水準が高かったと思います。小5〜6年生から塾に週1〜2回通って勉強をして、高校受験は県内トップクラスの公立高校と、博多と地元の私立高校2校に受かりました」

こうして高校受験を全勝で終えた原さんは、学校の立地と金銭面の問題から、公立高校に進学することを決めます。

しかし、これが彼にとって大きな人生の転機でした。1年生の1学期で彼は、「自分が行きたかった高校じゃない」と思ってしまったそうです。