「当時はすごい体罰校で、1年時には100回くらい殴られていました。赤点をとるたびに怒鳴られたり、ゲンコツされたり、ビンタされたり。先生が嫌いになってしまい、何一つ勉強しなくなってしまいましたね。入ったときの順位は450人の中で200〜300番くらいだったのですが、すぐにもっと下位の成績に落ちました」

父親から「400番を超えたら(勉強に集中するために)部活をやめろ」と言われていたそうですが、ついに1年の3学期には404位になり、中学から続けていたサッカーをやめて、高校2年生から河合塾に通うようになります。

とはいえ、1年生のときに抜けた基礎を取り返せるほど甘くなく、一時的に成績が上がることはあったものの、基本的には半分より後ろの成績が続きました。

母親の言葉が救いになり、浪人決意

「受験するとき、自分(立命館大学)より上の京都の大学に行ってほしかった父親に『君の(受けられる)大学は3つ。京都大学、同志社大学、立命館大学だ』と言われました(笑)。現役のときは5教科平均で偏差値52くらいしかなかったので受かるはずがなく、同志社大学3学部と立命館大学4学部を受けて、全敗しました」

通っていた公立高校は、九州大学の合格者数をほかの高校と競い合っていたこともあり、当時私大受験では不要だった理数科目を全員強制的に3年間勉強させられました。結果全敗で現役の受験を終えた原さん。

彼はためらいなく浪人を決断しますが、その理由については「親に大学の楽しさを聞いていたから」と答えてくれました。

「『大学に行けば好きな勉強ができるんだよ』と、小学校のときから聞いていました。高校での勉強は地獄でしたけど、母親の言っていたその言葉が救いでしたね。現役で合格するのは無理だろうと思っていましたが、大学に行かずにいきなり社会人になるという選択は、考えたことはなかったです」

こうして原さんは、高校2年生から通っていた河合塾で引き続き浪人生活を過ごすことに決めます。4月を迎えるころには、浪人する前の春休みに早稲田大学を見に行ったこともきっかけで、志望する大学もはっきりと決めていました。