人生において「逃げるが勝ち」ということは確かにある。闘う必要のない場面だと判断したら、あるいは自分の心を守るために一時的に逃げることが大事なときもある。
「僕自身、自分を保つために逃げたことは多々あるし、それがいけないとも思わなかった。でも今は、もしかしたらここで逃げてはいけないのかもしれないと感じているんです。正念場とでもいうんでしょうか、人生の」
西野慎司郎さん(49歳・仮名=以下同)は眉に深いしわを寄せてそう言った。明るくて、どこにいても場を盛り上げてくれる気配りの人だが、おそらく本人の心の奥深くには闇がある、彼の悩みを聞いてもらえないかと知人が紹介してくれたのが慎司郎さんだった。
「誰かに背中を押してもらいたい。そんな気持ちでいるのかもしれない」
彼はそう言って、今の状況を話してくれた。結婚して20年たつが、5年ひきこもり、今も不安定な状態の19歳の息子がいて、16歳の長女は親に反抗的で何度か補導されている。妻はすべて「あなたのせい」と言っている。さらに彼には4年ほどつきあっている女性がいるのだが、彼女との関係も不安定だ。崖っぷち、袋小路などの言葉しかないと彼は弱々しく笑った。
いったい、どうしてそんなことになってしまったのだろうか。それを紐解くには彼の生い立ちをたどる必要があった。
普通ではなかった「父」との関係
慎司郎さんが育った家庭は両親との3人家族だった。だがそう思っていたのは彼だけで、実父は他の女性と婚姻関係をもっていた。つまり、彼の母は父とは結婚していなかったのだ。
「僕が5歳くらいのころだと思うんですが、父が遊園地に連れて行ってくれたんです。一緒に行くはずだった母はそのとき風邪をひいて、家で寝ていた。母をひとりにしたくなくて、遊園地には行かないと言ったんですが、母がどうしても行けとしつこかった。最後は泣きながら遊園地に行ったんです。そんなだから、あまり楽しくはなかった。ただ、父がソフトクリームを2つ買って僕が待っているベンチに小走りに戻ってきたとき、クリーム部分が1つ落ちちゃったんです。父は苦笑いして、『ごめんな。かっこ悪いところを見せちゃったな』とクリームのついているほうをくれました。僕も突然、父がかわいそうになって『半分こしよ』と言った記憶があります。父は一口食べたけど、『あとは食べていいよ』と。父とふたりで出かけたのは、あれが最初で最後だった気がする」
それから急に父が帰らなくなった。慎司郎さんは詳細を聞いてはいないのだが、おそらく母と彼の存在が本妻の知るところとなって、父は家庭に戻ったのではないかと考えていた。
「当時、母はお父さんは仕事で遠いところへ行っていると言っていました。それを信じていたけど、小学校低学年のころからなんだかおかしいと不穏なものを感じ取っていましたね」
「両親には絶望感しかなかった」
ところが中学の入学式に父がやってきた。式典のときは気づかなかったが、式が終了したとき母が「おとうさんが来たよ」と駆け寄ってきたのだ。彼の記憶の中の父とはまったく違う印象だった。
「痩せていましたね。明らかに病気だとわかるくらい。父は杖に体を預けるようにして立ち、僕をじっと見ていた。そして『シン、がんばっていい人間になれよ』と言ったんです。いい人間、というのがどんなものなのかわからなかったから、『おとうさんみたいになる』と言うと、『それはやめたほうがいい』と苦笑していました。父は自分で作った会社の代表だったんです。大金持ちではなかったけど、小金はもっていたらしい。母と僕が住んでいたマンションも、小さくて古いけど母の名義になっていました」
父はそのまま止めてあったタクシーに乗り込んだ。母は「もう会えないかもしれない」とつぶやいた。おとうさん、病気なの、だったらどうしておかあさんが看病しないのと言いたかったが、それを言ってはいけない雰囲気があったという。
「高校生のころ、留学することになり戸籍謄本をとったら、父のところは空欄でした。認知さえしてもらっていなかったんですね。それでも母はじゅうぶん生活費や養育費はもらっていたようです。そのこともショックだった。お金さえもらえば子どもの立場は、非嫡出子のままでいいのか、と。おそらく父はすでに死んでいたと思うけど、僕は実父の葬式にさえ出られなかった。それは母のせいだと思い込んだんです」
母に毒づいた。母は「戸籍なんかどうでもいいのよ」と言ったが、彼の立場としては賛同できなかった。お金は送ってきたかもしれないが、ろくに自分を育てなかった父を憎み、そしてそんな父をずっと愛していたとしか思えない母を情けないと思った。
「今になれば、婚外にできた子を認知するのは大変だろうとは思うけど、親としての義務は果たしてほしかったですよ。両親には絶望感しかなかった」
“戸籍のショック”でグレた彼を変えた「死」
母はずっと働いていたから「大学に行きたいなら、費用は気にしなくていい」と慎司郎さんに言った。だが、学費は父が遺してくれたのではないかと彼は考えている。母は、中学の入学式以降、父の話をいっさいしなくなった。ごく普通に日常を淡々と過ごす母には、子どもだった彼ではわからない苦労と葛藤があっただろう。
「戸籍のショックで僕は何もかも嫌になって、留学のチャンスも手放しました。母は驚いて教師とともに説得してきましたが、僕は応じなかった。そのまま学校へも行かず、悪い仲間と連れ立って遊ぶようになったんです」
それまでよかった成績があっという間に転落、このままでは行ける大学なんかないぞと脅された。生きていてもしかたがないと思っていたとき、いちばん仲の良かったワル仲間が突然、自殺した。
「先を越されたと思いました。同じことをしても意味がない。そいつの親から『この子、本当の友だちはシンだけだって言ったことがある。本当はいい子だったのに』と言われて、僕はヤツの分まで生きるしかなくなった」
受験まで7か月ほどしかなかったが、心を入れ替えて勉強に励んだ。幸い、受験に向いていたのだろうか。誰もが知っている有名私立大学に合格した。
「母は喜んでくれたけど、僕は母には相変わらず冷たく当たっていました。母への感情はうまく整理できないまま固まってしまった感じです」
大学では経済や経営に興味をもった。同じ志をもつ仲間と大学在学中に会社を設立したが、それはあっけなく潰れた。しかし課題も見えたので、次に会社を作るにはどうしたらいいかもよくわかったと彼は言う。
「大学卒業後は、まずは会社というところに勤めてみようと思いました。希望する会社に行って、自分の会社をつぶした経緯を話したらウケましたね。それを教訓に、次にやるならこんなふうにとビジョンを話したら、役員たちがいっせいに前のめりになりました。気持ちよかったですよ。詳細な計画があるわけじゃなかったから、ちょっとはったりをかましすぎたかと思ったけど、はったりが重要なときもある。社内起業を目指してほしいと言われ、その会社に入社することができました」
3年後、彼が中心になって社内起業に取り組んだ。3年である程度の結果を出せと言われたのだが、なんと彼は2年でそれを達成した。「運がよかっただけ」と謙遜するが、実際にラッキーなことが重なったそうだ。
変わらない“逃げ癖”
社内では肩で風を切って歩いていると陰で言われていたらしいが、彼はそんなことに気づかず、日々を懸命に生きているだけだった。
「だけど成果が見えたら、急につまらなくなってしまったんですよ。それでそこは他の人に任せて、僕はまた別の社内ベンチャーに取り組んだ。飽きっぽいと周りからは言われたけど、チャレンジするのが楽しいだけで維持するとなると急に嫌になってしまう。逃げたくなるんですよね……」
生きることそのものから逃げようとは思わなくなったが、何かあると逃げたくなるのは変わらなかった。
そんなとき親しくなったのが、同じ社内起業をしている5歳年上の由依子さんだった。
「なぜか僕の心と体をガシッと受け止めてくれたんですよね。受け止めたのか抱え込んだのかわからないけど、とにかくものすごい包容力だった。僕が不安定になっても彼女は慌てず騒がず。社内で別のベンチャーを立ち上げたいと言ったら、『このくらいの数字まで業績が上がったらやっていいかって上司に聞けばいいじゃん』って。具体的な数字を達成できたら、あとは任せたと言ってもいいけど、発展途上で自分だけ降りるのは違うと思うと。世の中はこういうものだよ、こう思う人もいるよということを教えてくれたのは彼女ですね」
彼女を失ったら自分の人生の指針がなくなる。そう思った彼は、恋人でもなかった彼女にプロポーズ、由依子さんも「いいよ」と言ったというから興味深い。
後編【息子は引きこもり、娘は万引きして補導…家庭からの逃避で、20歳年下女性と不倫に走った49歳夫がいま、逡巡している理由】へつづく
亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部